VISITORSとは2016年8月13日よりinstagram上で始めた白黒のキャラクターの顔シリーズ。
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不定期ではありますが、6年以上1800個以上を大変でないわけないのになぜ続けているのか。それをちょっとメモとして残しました。
理由1:絵の練習
最初VISITORSを始めた時の理由の一つ。
昔、画家のヒロ杉山さんが毎日ドローイングをしていると聞いたことあった。それからできるだけ毎日落書きでもいいから絵を描こうと決めた。絵描きを諦めた会社員時代数年間はやってなかったが、学生時代から習慣のようにドローイングはやっていた。けどドローイングだと誰かに見せるタイミングがほとんどない。けどsnsというものができてからはドローイングを気軽に誰かに見てもらえて評価ももらえる。最初は「こんなの待ってました!」って感じだった。 VISITORの前身は怪人を全身色付きで描き毎日投稿ていたけど、それだと大変すぎて続かなかった。続けるためには極力簡単なものをと思い、顔だけで色無しにした。(6年続けたら練習の甲斐あって、流石に上手くなったと感じる。)
↑こちらの絵はVISITORS最初のキャラクター
理由2 :本命で勝負したくなかった
僕はいくつかの絵柄を得意としていて、本来VISITORSではない別の絵柄で有名になるなどの成功をしたかった、つまり本命の絵柄は別にあった。
しかし僕は本命を「とっておき」にして、別の絵柄で勝負することの方が自分に向いていると思ったのだ。自分に常に何かしらアドバンテージがあり、やってることが背水の陣ではないことが自分の精神を安定させ、安心感の中で絵を描くことの方がベストな作品が生まれることを知っていたのだ。
追い詰められ後がなくなったときに120%の力を発揮できる人もいるが、僕は逆に全ての心配事がなくなったときに120%の力を発揮できるのだ。以前会社員をやめては絵描きとしてチャレンジし、不安でパニックになり何度か失敗しているので、経験済みなのである。
それに本命は飽くまでも自分の本命であって本物に成長するかは分からない、だから本命で勝負して、もし負けたらそれは復活できなくなるくらい傷つくだろう。
では、VISITORSが本命ではないということになる、確かに潜在意識の中で色を使いたいという欲求はある。しかしこれまでどの絵柄よりも VISITORSには時間を使ってきて、家族や恋人や自分の大好きな何かよりもはるかにVISITORSのことを考えてきた時間が長い。VISITORSは今のところ、明らかに僕の作家活動の最も重要な作品群なのである。
理由3 :著作権問題へ不満
ある程度続けた時に気づいた、「あれ?これこのまま続けたら絶対既存のどれかのキャラクターに似ちゃうじゃん!」ということを。例えばVISITORSの場合色を使わないので、黒い丸い耳を描いたら、それはミッキーマウスのようになる。こちらがそんなつもりではなくても世の中の人はこれまでミッキーを見過ぎるているから、丸い黒耳が並ぶとミッキーマウスだ!となってしまい。「これパックってんじゃん」って言われる。もう人類が作ってきたキャラクターはあまりにも膨大で、こちらがその気はなくても必ず何かに似てしまう。
「それはおかしい」と僕は思った。じゃあこの後未来で若い人たちは自由な表現ができなくなってしまうじゃないか!?
そこで閃いた、たくさん描くことで回避できるんじゃないかということに。
例えばこれはあの有名キャラクターに似ているが、僕が描いた過去のアレにも似ている。過去のあれはあの有名なキャラクターには似ていない。つまり僕のオリジナルからの派生とも言える。
それに、2000個近く描く中で、同じ顔が出てこないように描いていくとどうしてもその誰かのオリジナルと言われるものに辿り着く、誰がやってもおそらく辿り着く。例えば目を三つにしようか、あのキャラクターに似ている。顔を横に二つ並べようか、あの作家のあの表現に似ている。など、しかし僕はそれをパクったわけでも影響されたわけでもなく2000個近く描く中で辿り着いただけであると言えるし、それが事実である。仕方がない、白黒で正方形に顔を描くのだから余程頭が悪くない限りそのようなアイデアは誰でも出る。これで僕はこのVISITORSシリーズにおいて著作権のことでつべこべ言われなくなるだろう。という理論だ。
(理論は理論でそれをも超えてわざわざ既存のキャラクターをからかってみたくもなるものでもある。確信犯的にキャラクタももちろんあるね)
理由4 : 自分のことをより深く知るため
何も考えずただただペンが作り出すキャラクターを投稿しているときは意識していなかったが、すっからかんになって何も出なくなってくると、より自分と向き合うようになった。自分のルーツとか見てきたもの、自分の内面。そんなものを探るようになったら、自分というものが昔より少しわかってきた気がした。それを『メタ認知』というらしい。その日の最後に日記を書くなどして鍛えることができるらしい。
それは思わぬ収穫で、もしかしたら表現するとはそういうことなのかと気づいた。正直まだ全然巨匠の域ではないのでさらに表現をし続けてみないと分からないことがたくさんあるかもしれない、それらの気付きはとてもワクワクすることだ。
理由5 : 日記として
ある時これまでのVISITORSを振り返ってみた、そしたらそれを描いた時の記憶が戻ってきた。一つ一つその時のことを覚えている。情報量と正確さからして言葉よりも VISITORSの方が日記として優れているとは全く思わないが、日記(テキスト)だと僕を知らない他人は誰も関心を持たないだろうが、絵は誰でも見てくれ楽しんでくれるからそのベクトルではVISITORSは優れているとも言えるし、テキストより何が言いたいか曖昧な感じも好きだ。
しかし最近はテキストも一緒に投稿してる。矛盾だが僕の日記(テキスト)の評判が良いと聞くのでやめられなくなった。
理由6: 寂しいから
僕ら作家はずっと家もしくはアトリエで大抵の人が一人ぼっちだ。特に僕は会社員を8年くらい経験してきたからチームでのモノづくり、会社の成長などを社員みんなで分かち合ってきたから余計一人で作品を作っているのは寂しい。だから毎日誰かの反応が欲しい。「いいね」だけでもいいから誰かとコミュニケーションをしていると寂しい気持ちが紛らわれる。
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